おさらい

読了してまず思ったのは「この著者は文学というものをどう考えているのか」ということであった。http://blog.goo.ne.jp/kuroko503/e/94af3f5ece4af8e5bd75d557365ffef3


これは要するに、「何が面白いの?」って言いたかったんじゃないの? (と、私が判断する根拠は「私」であるわけ) そして私もそう思ったし。いまどきポストモダンへの恨み節をいうことに公共性があると思っている人がいるんだなということを教わっただけ。全共闘世代の恨み節のリプライズを聞いているみたいだ。

だいたい先生が噛み付く根拠は「完膚無きまでに批判されていることに、全くこの本は目配りしていない。」の「全く」という表現くらいにしかないと私には思えるのだけれど。これが「完膚無きまでに批判されているというのに、この本の目配りは私には物足りない。」などの表現だったら、もう先生は噛み付けないよ。物足りないとおもう根拠=情報が、黒古さんにはあったのだから。

知らなかったことの蓋然性や妥当性を主張して対抗するなんて四十男のすることかと(年齢差別的なことを)思う。

「貴重な情報をありがとうございました。これからも精進いたします」程度のことを言っておくのが普通の対応だろうと思うのだが。そう思う私の根拠は私の主体性にあるわけ(しつこいか)。

「文学観」の違い、創作(表現)と言うことに関する考え方の違い、「情報」についての考え方の違いなどによって、今度の「大騒動」になったのだと思うので、もうこれで僕は止めます。http://blog.goo.ne.jp/kuroko503/e/f1fae305b2ffaf67de54edcde2417168


あ〜あ、老人を怒鳴りつけて萎縮させるようなまねをしやがって。猫猫先生、私はナチスに弾圧されたユダヤ人がパレスチナの人々にやつあたりするのを目の当たりにしたような気分ですよ。


【追記】まあ、更なるサプライズの可能性もなくはない。なんで栗原氏は、じゃあその文章が載っている掲載誌を送っていただけませんか、と依頼しなかったのか。そしてその依頼にたいして黒古さんがどう対応するだろうかということを考える。

私だったら真っ先に自分が書いた「合計して200枚ぐらいの豊田清史批判」をスキャニングしてその画像をアップするだろうからね…。それは起こってない事態だから、私は黒古さんの肩ももたないわけ。

こうやって黒古さんに同情することがそもそも、黒古さんの狙いかもしれないのだから(よくよく私はいやなやつだな)。