同情と距離をおくこと

たとえば中井英夫である。『虚無への供物』とか、真犯人の動機に納得しないものを私は感じたのだが、その感想は、明らかに、中井への同情が私に欠けていたからである。

『彼方より』を、私はぱらぱらと卒読して返却してしまったが、生硬な文章の行間に、中井の、いたくない時代に居合わせることを強制されたくやしさは、まあ感じることはできるのである。

だから、『虚無への供物』も、不満は感じるけれども、情状酌量せざるをえないと私は判断する。

戦争さえなかったらねえ…、と私は思ったのだ。それは呉智英もおなじ。呉がおくった青春時代に学園紛争がなかったら。少年時代からの蓄積を、中井も、呉も、ストレートに社会へ還元できたかもしれないのだからね…。

呉は全共闘小説を書かないのかしら。論語だの封建主義だのより、そちらのほうがよほど読んでみたい気がするのだが…。

そして私は私のことを思う。戦争も学園紛争も、嵐のような消費生活もなかった、孤独な曇り空のような、あの90年代を、若者として過ごすことを運命から強要された私自身のことを。