『ダークナイト』のジョーカー、不安定なものを描くのは難しい

手下に紛れて、用済みの手下を殺していくという衝撃的なオープニングがいちばんよくて、あとはそれほどでもないんだよなあ。やはり狂気を、でたらめを、意外性を描くことは難しい。

フェリーのシーンが偽善的なのは前にも触れたけど、ハーヴェイ・デントがトゥー・フェイスに変身(変心)するのをジョーカーが促すシーンも、あまり上手くいってるとは思えない。ジョーカーがいなくたって、ああなったろうよとしか、ね…。

バットマンは終盤でトゥー・フェイスを「殺し」、ゴッサムシティ混乱の責任をひとりで引っかぶる。この決断が、つまりはキモなんだけど、監督にはここを強調するべきか否かについて、迷いがあるように見受けられる。それは、逃げさるバットマンの映像に、ゴードンが説明ゼリフを語るのをかぶせる演出に顕著に現れている。バットマンの決断こそが明らかな「狂気」であるのに、その決断の根拠となるレイチェルへのウェインの愛を、レイチェルからの別れを告げる手紙を燃やすことで、アルフレッドが永遠のものにする。ドラマとしてはうまくできているけれど、それは観客を安心させることにつながるわけで、やはり狂気を描くことからは遠ざかるわけだ。

というか、わかった。…この映画の最大の欠点は、あれだ、ウェインがレイチェルを本命にしているのをデントが見抜けないでいた設定にしていることなんじゃないか。こんなご都合主義、端的に、ウソだもんな(笑)





それと、『ダークナイト』とあまり関係のないことを、ふと思いついたのだが、慣れというやつは、狂気の最大の敵なのだよな…。