このパズルに終わりはない

パッケージソフトのRPGには通常エンディングがあるらしいが、ネットゲームのRPGは廃人になってもまだ終わりにはならないそうで、推測で書いてるのはやったことがないからなのだが、まあそれはともかく、パズルには終わりがないということを言いたいのだ。プレイヤーの中断があるばかりである。

長谷川町子は濫読家ではなく、少数の本を繰り返して読むタイプの人だったらしくて、私もわりとそういうほうである。なんであれやこれやの本を読んでいることが自慢になるのだろう、どうせ他人が書いているのに…。

ある種の人は同じことを繰り返すことにマイナスの評価をあたえるらしくて、たとえば「『物語消滅論』(角川oneテーマ21、2004年)が語り下ろしで出たときなど、さる文芸評論家が「使い回しばっかじゃん、いい加減にしろよ」と呆れたのに対し、「や、それでもけっこう見るところがあるよ」とプライベートな会話で弁護したほどなのだが、その後『更新期の文学』(春秋社、2005年)を読んだとき「使い回しばっかじゃん、いい加減にしろよ」と呆れ、以来大塚は読んでいない。*1」などという回想をパブリサイズする人がいて、私にとっては「使い回しばかり」は直接には「もう読まない」という判断には繋がらないので、ああこういう人もいるんだなと思うばかりである。

実は私は外部に一切の興味がない。いちおう促されてカウンターに興味を持つようにはしている。外部をいう人たちが、二流の感性をしかもたないダセエ人たちだというのは、さすがに私も三十年生きているから…。

実は日本の人口は1億もあるそうで、これは恐ろしいよねえ…、人前に出たら、その顔を見る人、手元を見る人、背中を見る人、つむじを見る人、誰がどこを見てるかわからない。これを恐ろしいと思わない人がうらやましい。

そしてポピュレーションのことを「人口」と訳した(明治の?)人はすげえなあと思うのだ。だって、手のない人も、足のない人も、普通にいるでしょ? でも口のない人は、当時は多分生き続けられなかったのだからねえ。めし、食えねえんだから。正直すぎるのにも程がある。そして、人は口と適度な社会経験さえあれば、なんだって言える。そして、それゆえに、いわない。

ま、平等な社会は、同時に煩瑣な社会でもあるよねえ…。

(みんな、こういう文章が読みたいんだろう?)