文化的失語症からの回復

夏目房之介手塚治虫はどこにいる』を読んだら、意外に晦渋で憂鬱な文章で、これはなんだろうと思ったのである。おなじ著者による『手塚治虫の冒険』とあわせて読んだのだが、この本のはじめのほうの記述で、69年ごろ何をどう描けばいいのかわからなくなったという述懐があって、ちょっとのけぞったのである。まるで高橋源一郎ではないか。そしてその話を切り出すきっかけが高橋ではなく村上春樹だったりするので、ますます世代的な現象だったのかなあとも思うのである。

大塚英志説だと村上の明かされざるロールモデル江藤淳なのだそうだが、夏目にとっては手塚であって、その手塚が死んですぐの論考が『どこにいる』だったから、本の表現が晦渋になってしまったということなのだろうか。高橋のロールモデルは80年代にはひろめに設定してあって特定の文学者ではなしに「文学」だったから金子光晴などの作品を具体的にああだこうだと説きはしなかったのだろうか。

これは後知恵になってしまうが、夏目の本を読んで、かえって私はマンガ図像学だけでは片手落ちだなあと思ってしまったのだ。夏目は時代の目撃者であって、その体験の記憶がベースとしてあったがゆえに読者も客観的なものとして受け取れる図像学になったのではないかと思うのだ。夏目のような体験のない大塚や伊藤剛が、手塚のごく初期の作品をしつこく論じることに、大塚や伊藤のさらに後続世代である私は、トゥーマッチな印象を拭えないのだが…。ああ、ほんとに「学問」にしちまおうとしてやがる、…と。