竹熊健太郎『私とハルマゲドン』

私は著者の十六歳年下なんだが、地下鉄サリンの当日は「怖いことになったなあ」としか思わなかった。ついに異変が社会を襲ってワクワクしたなんてこともなかった。しかも当初はオウムが犯人だとおもわなかったし…。

やはり80年代を20代として過ごすというのは、あとの世代にはうかがい知れないなにかがあったのだろう。そう思うのだ。

非常識というものを、反抗的な非常識と、禅問答的な非常識と、ふたつに分類して、オウムは前者だから社会とぶつかったのだとする見方はおもしろい。性格的に社会と折り合えないような人間は、他人の反感も共感もおいつかない領域へ逃避すればいいというのは、一理あるとは思う。

とはいえ、なにか読んでて引っかかるのである。

家庭にメディアがガンガン侵入しはじめた活気のある時代の著者と、普通に生活していたら、とてもそのすべてには付き合いきれないほどメディアが多様化してしまった頃にまだ小中学生だった私との違いなんだろうか…。

この違和感を言語化するのはちょっと難しいのだが、なんというか、竹熊氏は、その死生観が決然としているというか、簡潔すぎるというか…。私たち昭和50年前後生まれの人間の死生観は、もっとグズグズしている。私たちには「ハルマゲドン」はなかったのだから。当時から、上の世代は妙なものを信じているなあとしか思わなかった。竹熊氏みたいに、みんないっぺんに死んでしまうなら怖くないなんて思わない。ハルマゲドンなんか起こらないのだから。

なにしろ私たちは劇場公開が終わっていた『未知との遭遇』を、テレビ放送ではじめてみた世代なのだ。つまりなにが言いたいのかというと、それまでのお約束である「怖い宇宙人」というイメージを裏切ったことがあの映画のウリだったのに、そういう前提すら知らないままに『未知との遭遇』を見てしまったはじめての世代なのである。私は、宇宙人は当然いて、それは友好的なものなのだ、と思っていた。だから、ウルトラマンは古臭く思えたのである(実際古かったわけだが)。

宗教というのも、私はマイナーな問題としか考えていない。それが気休めになるなら創価学会にでも幸福の科学にでも、それこそオウム改めアレフにでも入ればいいではないかとしか思えない。私は『僕らはみんな生きている』は面白く読んだが、『ありがとう』以降の山本直樹にはさっぱり乗れないのである。『レッド』だって、どうでもいいよいまさら共産主義なんてとしか思わないし。私よりもちょっと上の世代が、宗教をからかうのを面白がるのも、これもよくわからない。自分にとって不要なもの(宗教)を他人が欲したところで、それをからかうことが正当化されるはずもないだろうと思うのだ。