心の誤作動としてのオタク

『私とハルマゲドン』の感想が上手くまとまらないまま眠って、目がさめたらなんだかすっきりしてきた。

つまり、メディアって、幻想なんだ。

殺人をあつかった映画だって、結局は人を殺してない。実際の殺人なんて、グロ系動画サイトでしか見れない。セックスを写したAVだって、演技であって実際のセックスは、人によるし、環境によるし、体調による。

メディアには「自分」だけがない。

どんなメディアにだって、「なるほど〜」というしかない。小説だって、マンガだって、音楽だって、映画だって…。

「なるほど〜」以上のことを言おうとしたら評論になってしまう。これは、よくいえば、の話であって、たいていの評論は、おもいのたけをぶちまけたにすぎない「トンデモ」だったりするわけで…。

私は最近気付いたことがあって、死を恐怖してきた私は、あるいは死にたいする準備をしすぎた私ではなかったのかって。性にたいして発言しすぎる現代人は、死にたいしてだって発言しすぎているんじゃないかって。

べつに死について何も考えずに生きてきて、いざもう死ぬと教えられて、周囲に見苦しく思われるほどに泣き喚いたって、そういう人がいても別にいいではないか。どうせ、すぐ死ぬんだし。

養老先生は、では、いままで何を言っていたんだろうということになる。だって、生老病死を先生が開発したわけでもないのに…。

なんか、またひとつ悟ってしまったなあ…。思想する人って、結局時間を止めたいだけなんだ。禅の奇天烈さだって、ようするに時間を無化することを狙っているんでしょう? ちゃんとした、飛躍する箇所のない論理なら、たとえ難しくても、時間をかけてゆっくり理解していくことができるけど、禅はそうではないわけだからね。