唐沢俊一はあわれか?

検証ブログ氏の「ガンダム論争検証編」は読みごたえがあった。というかところどころ読み飛ばしているので、あとで熟読を重ねたいと思うのだが…。

しかしブログの著者と読者がうちそろって唐沢あわれなりとはやすのはいただけない。情報だけを羅列してくれたほうがクールだと思うのだ。

そもそもあわれでない人間なんているのかね、とキリスト教徒みたいなことを私は思う。キリスト教だって、マルクス教だって、当時の優秀なはずの人たちがあれこれ知恵をしぼって構築した体系だが、現代の私にはたんなるアホダラ経としか思えない。もちろん彼らの善意をとくに疑うわけではないのだが…。

唐沢俊一のファンがどれだけいるのか知らないが、要するに、唐沢が「俺は間違っていないんだ!」というポーズを変えないところに惹かれているわけだ。「よくしらないけど雑学の人でしょ?」というのは、まあファンとは呼ばないだろう。だから唐沢の知識がいいかげんであることは、唐沢の瑕疵には(そのファンにとっては)ならないわけだ。

唐沢の嘘や間違いをブログで指摘することは、要するに「まちがい盗作する唐沢俊一」という像を、世間に再提出することにしかならないと思うのだ。そして、唐沢がもともと生息していたのは、世間から「(まちがいや盗作が日常茶飯の)いいかげんなもの」とみなされるジャンルの出版領域だったのだから、世間の人にはあまり意味がないとも言える(そしてその意味のなさにこだわっていないことは、検証ブログ氏自身が早い段階で言明している)。ある人が、ここは立派な領域なのだから唐沢のような存在を許さないといきまいたところで、さらに遠い人からは「目くそ鼻くそがなにを言っているんだか」と思われるだけなのだ。