『破線のマリス』

猫猫先生が触れていたので読んでみたけど、どうもなあ。

「灰色の男」が何者なのか明かさずに終わるというのが、受け入れられない。先生いわく「テレビ界の暗部を抉った傑作」とのことだけど、私は、テレビ界には遠藤瑤子みたいに自分の確信を一方的に妄信してつっぱしるタイプは少ないんじゃないかという印象がある。

テレビには、どちらかというと瑤子のような熱血バカよりもリコウの方が多くて、それがよほど問題なんじゃないのとすら私は思うけど。

瑤子の息子も、あれじゃ異常者じゃないのとも思うし。この息子の造型は、ちょっとクリストファー・ノーラン版のバットマンに通じるものがあると思った。バットマンブルース・ウェインの善意は、観客(と執事のアルフレッド)だけが知っていて、客観的にはブルースはたんなる異常者でしかないという構造に通じるものが。

何のために見るのか。見た後の人生を豊かにするために見るんじゃないの、と私はおもうけど、メディア時代が進むにつれてそうでない人が増えてきた。見ることに意義を見出すオタクの発生だ。

きっと人間の脳が、個人に一個しか割り当てられていないためのエラーのようなものなのだろう。見る脳と、判断する脳が別々に分かれていたら、人間のメディア生活は、もっとまともなものになっていたに違いない。

誤解している人が多いのだろうが、見ること自体には意味はないのだ。見て、どう感じ、なにを判断するのかが、重要なのだ。野沢尚は、その意味で、遠藤瑤子がなぜ育児をすてて仕事の世界にもどったのかを説得力をもって描くことに失敗していると、私は判断せざるをえない。21章には、正直鼻白んだ。

戦後生まれが親となる「ニューファミリー」に生まれた私、もしかしたら遠藤の子の淳也のように育ったかもしれない私には、野沢が描かずに避けてきた瑤子の動機が手に取るようにわかるのだけど…。要するに日本人として生きることの不安を、仕事にかまけることで無視しようとしていたのだ。これを描くことは、娯楽小説の範疇を越えることかもしれないが、しかし野沢尚は、そのことに向き合うべきであったと私は思うのだ。

戦後日本人と、仕事の関係を。

『プロ倫』を読んで、職業というものを考えはじめた私に、おもわぬ方向から「野沢尚」というテーマが飛び込んできたような気がするのである。かつて私は、まったく無責任な観客の立場から『深紅』を絶賛したことがあったが、これもなにかの縁であろう、野沢についてもっとよく知ろうと思いはじめたのである…。