『エミリー・ローズ』、スコット・デリクソンが考える「映画が静止する日」

地球が静止する日』がちょっと面白かったので、同監督の前作であるこれを見た。

エクソシスト』を見てびっくりした一般人も三十年を経て、SFXですら今は昔、すっかりすれっからしになって、CGをつかって大量生産されるホラーを飽きずに?見ている現在なわけである。

映画の知識が一般人にもなんとなく広まったために、感動はうすれ、量をこなすことで、欠乏感をやりすごす昨今というわけだ。

悪霊は現実にいないことはなんとなくはっきりしつつあって、しかし、宗教は依然としてそれなりの影響を現実社会におよぼしている。

私は去年、悪について考えすぎたせいで、いまのところ悪には食傷気味なのだが、悪霊を信じている人をめぐってうごいていく状況にまきこまれた女弁護士の物語であるこの映画はけっこう面白かったのである。

適切(と思しき科学的)な治療をしりぞけて悪魔祓いにかまけたせいで、統合失調症がうたがわれる女子大生の病状を悪化させて死にいたらしめた神父は有罪か否か、というわけで、なかなか面白い着眼点だと思うのである。

女子大生ローズが死ぬあたりの描写が、それまでとうってかわって曖昧になるあたり(霧まで出る*1)は、ちょっと物足りないとおもったが(死亡時の状況を克明につたえなければ観客も裁きようがないだろう)、まあ劇映画だし、多めに見ようと思うのである。

私としては、神父に精神科の知識があったらこんなに話はこじれなかったんではないのと、冷たいことを思ってしまったけれど(精神科に入院させて、薬をあたえ、毎日面会に行って宗教の話をしてあげればよかったのである)。

なぜ幽霊を信じていないのにホラーを見るのか。戦後、私たちの父親の世代は、幽霊を信じなくなりつつあった自分たちにもインパクトを与えるような悪霊や宇宙人を創造したのだった。それがエクソシストでありエイリアンだったわけだが、いま現在の私たちはそんな手間をかけてまで幽霊なんかに向き合おうとは思っていない。だからこそ、監督もより怖いホラーを作るという方向に向かわずに、ホラーと法廷劇をフュージョンさせようと発想したのではないかと思うのだ。ホラー描写のいくつかにおける、統合失調症患者の妄想のイメージ映像みたいな素直さは、ホラーとしては踏み込んだものを作るつもりがないというポリシーからでたものなのではないかと思ったのである。

エミリー・ローズ』と『地球が静止する日』において、スコット・デリクソンは、悪霊も宇宙人も信じない現代の私たちにとってのモンスター表現を試行錯誤しているようで面白いのである。デリクソンは、たぶん、悪霊も宇宙人も物語をつたえるための方便としか思っていないだろう*2。『地球が静止する日』のCG描写の大雑把な感じは、マイケル・ベイの『トランスフォーマー』におけるこだわりなどとは一線を画しているように思えるのだ。

21世紀ももうすこしで十分の一が終わろうとする現在、幽霊はもういない。助けを必要とする病人だけが存在していて、いまやっと私たちは人間という枠組を疑い、個々の人間の複雑さに目を向けようとしているのである。

*1:蜘蛛巣城』へのオマージュなんだそうだ…

*2:どうもそうとは言いきれないようである。http://allabout.co.jp/entertainment/movie/closeup/CU20060399E/index.htm参照 それにしても、超常現象はガセか否かの区別はあっても、神や宇宙人と違って信じるか信じないかではないと思うのだが…