『ドグラ・マグラ』

まさに「バブリング創世記」のような話で、

英夫『ドグラ・マグラ』を読み、『虚無への供物』を生めり、治『虚無への供物』を読み、『ふしぎとぼくらはなにをしたらよいかの殺人事件』を生めり、

だなあ…。

どの作にも共通するのは動機の薄弱さであって、『虚無への供物』の大量死への怒りと鎮魂なんか、そんなの殺人の動機になんてなるものかと憤りに近い感想をもったが、しかし、まあ、中井英夫にはそれを言う資格があったのだと思うことにしよう。夢野久作は成人前に日露戦争をやりすごし、大正デモクラシーを享受した世代なのであって、『ドグラ・マグラ』の妙な楽天性は、そのあたりに理由があるのかもしれないのだ。

オチのある話の動機というのは、結局はつまらないものになってしまうのか、などというと芥川のことを連想しもするが…。私もまた、オチがある話はつまらないと感じる、幽玄の国日本の人にすぎなかったという「オチ」になってしまうのか…。