『慰めの報酬』

よくわからないところがあったので、シネコンのポイントもたまっていたことだし、もういちど見た。

前作『カジノロワイヤル』をうろおぼえなのだが、今作のおしまいに、白地を横にあるくボンドがスコープにとらえられて、しかしスナイパーの方が返り討ちにあうという、例のあれがでてきていて、話の流れからいって、前作と今作とで、ボンドの誕生を描いたということなのだろうか。ボンド誕生をえがく二部作ということなのだろうか。

戸田奈津子が、字幕で、クォンタムというカナを「組織」のルビにつかっていたけれど、これは意訳なのかな。慰めの報酬というのは原題の直訳で、映画の内容をうまくつたえてはいない。原題の意図は、復讐によってどれだけ慰められるものなのだろうか、ということだろう。

ボンドがカミーユに暗殺の要領を伝授するシーンがある。怒りを込めるな、仕損じるから。復讐の感情を心にたたえていると、身体を機械的に操作することの妨げになる。要するにここでも脳科学が顔をのぞかせる。脳が、人間の体にはひとつしかないことの問題。復讐の意思は、記憶に深くかかわり、それは記憶によって現在の自分が足をとられることでもあって、復讐の感情が、そのために行われるはずの現在の行動をにぶらせてしまう。

ごくごくおおざっぱにいうと、『カジノロワイヤル』と『慰めの報酬』で、ボンドは向こう側にいってしまったということなのだ。この二作は、ボンドが、MI6という家を、Mという母を、再発見する物語なのだ。愛する女と二人きりで生きるには、世界はあまりに過酷であることを知るための旅を、若きジェームズ・ボンドは旅したのだ。最後のMとのやりとり、「ジェームズ、業務に復帰しなさい」「もともと辞めていませんよ」、パロディの時代のおわりを静かに宣告する(なにしろ本家のシリーズが、ジェイソン・ボーンのシリーズの模倣をやってしまったのだから)新しい007の、とりあえずの幕引きの台詞として、このダイアローグは、実は相当に苦いものだ。子供が家におずおずと帰ってきて、最初から家出なんてしてなかったもんと虚勢を張るようなものなのだから。

ダークナイト』のエンディングで、薄汚れたヴィランとしての社会認知を受け入れるバットマンの決断を見て、劇場の私は、「じゃあ、続編どうするつもりなんだよ...」と、あっけにとられたのだが、よく考えたら、これはブルース・ウェインの心の問題に「すぎなくて」、そういえば最初からバットマンのシリーズにおいて、ゴッサムシティの住人たちは、バットマンを受け入れてはいないのだった。私たち観客は、『ダークナイト』において、事件にではなく(アクションシーン、見づらかったもんな...)主人公の心の動きにつきあわされていて、それは、『慰めの報酬』も同じだったのである。ロジャー・ムーア世代に属する私の友人は、あたらしいダニエル・クレイグのシリーズにたいそう不満で、それは、まあ、わかるのである。結局ボンドがMI6を辞めるのでない限り、この話自体、やる必要のない話なのだから(!)

シリーズの仕切り直しに際して、主人公の心理模様を追ってみよう。これが最近のハリウッドのアクション映画の流行なのだろうか。『インクレディブル・ハルク』のテーマも、心身を自在にコントロールすることだった。CGでたいていのことを表現できるようになったハリウッド映画が、心理に注目するようになったのが面白い。

慰めの報酬』で、若いボンドを導いて南米におもむく老師のようなマティス(ついジョセフ・ジョースターを連想した...)が述懐する。若い頃は、善悪は明快に判別できた。しかし、今はそうではない...。今回は、敵も、茫漠として、全容がつかめない。どうも、世界の権力そのものが、ボンドが対峙すべき悪であると、製作者はほのめかしたいのだろうかと思う(トスカをBGMにして集合した世界の悪役たちとボンドが「向き合う」シーンは、これは文句なしにカッコイイ)。しかし、それは、明らかにMI6の手に余る対象なわけで、ある意味、スタッフは『ダークナイト』以上に高いハードルを『慰めの報酬』にセットしてしまった。続編、作れるのかな? 無理にでも作るだろうけど...。