「私は死を恐れない」

それでも、もし、日本語が「亡びる」運命にあるとすれば、私たちにできることは、その過程を正視することしかない。
 自分が死にゆくのを正視できるのが、人間の精神の証しであるように。http://d.hatena.ne.jp/solar/20090208から拝借

私は、水村美苗の議論の全体には、興味ないのだが、この結語の、あえていってしまえば啖呵は、ちょっと面白い。

私がいちばん好きな筒井康隆の文章は、初期の短編に頻出する、死への恐怖の感情をみだりに表出する文章で、もしかしたらこれも実存主義の「翻訳」なのかもしれないが、まあ、好きなのである。ここだけは、フェイクではない、という気がする。

自己の死を直視するのが、精神の証? 本気でそう思っているのかこの****は。精神が健全であればあるほど、死は、恐ろしいものではないのか。強がってるだけだよなあ、と思うのである。私は、別に人間の精神を証すために生きているわけではない。死ぬのが怖いから生きている。

とはいえ、衆人環視のなかで、「私は死を恐れない!」と強がるのも、表現者の、というか、宗教家の努めではあるよなあ、と思うのであるが...