「文学好き」

前に、人と話をしていて、相手がこちらの話柄をいぶかって「まるで文学青年じゃない」と聞いてきたので、実はそうでもないのだが、話の流れにしたがって「そうだよ」と答えたら、鼻で笑われたことがあった。

小谷野さんが、「村上春樹をよく読むのは若者」といつまでも思うのは年寄りの証拠だとコメントしているのを読んで、ふと思ったのだが、あの「文学青年」の意味である。

たぶんその人は「レトロ趣味」みたいな意味で「文学青年」という言葉を使っていたのではないかと思うのだ。自分に関係ない(むかしの)ものをむやみに漁っている。そういう意味で。

私は小説を読まないこともないけれど、それは知らないことを知るために読んでいるだけなのだ。自分が文学青年だとおもったことはない。

文学青年、演劇青年、映画青年など、いろいろいるだろうが、彼らの動機は「好きだから」ということしかないだろう。私は、ちょっと社会学青年が入った哲学青年というのが「本籍」だろう(経済について素人談義をしたがるし)。考えることには、私は、「なぜ」はないけれど、小説を読むことには「知りたい」という動機がある。だから文学青年ではないと自分では思っているわけである。

かえって一般人が小説を読むことが「わからない」。そういう人たちは、自分を発見するためにかつては春樹、いまは伊坂幸太郎を読んでいるのかもしれないが、なんで他人が書いたものに自分を発見しなければならないのかと私は思うわけだ。人が書いたものを人が読むのだから、それは通じるところがあるに決まっているのだ。犬が小説を読んで「ここに書かれているのは私の心だ」などとは普通思わない。他人が自分を理解しうることにことさらに感心するのが「不思議」なのである。他人が書ける程度の自分しか、他人が書いた小説にはないだろう、というのが普通の思考である。

だから私は、「この小説にはこういうことが書いてあったらいいな」と「あたりをつけて」読むのである。私にとっては小説は趣味ではなく実用品なのである。新聞と同じだ。本当に小説が好きな人はなにもいわずに思わずに、ただ黙々と小説を読むはずである。小説を読まないことをことさらに自慢する橋本治は、やはり「自覚していたとおり」小説には向いていなかったのだろう(こういう風に橋本に言及する人はあまりいないだろうけど)。橋本は自分の理解を読者におしつけすぎるのである。少女マンガ評論家か映画評論家になれればいちばん幸福だったのかもしれないが…。

高橋源一郎とか橋本とか、小説がじつはそれほど好きでないくせに小説家の肩書きをあげてる人が、高尚な文化のほう(岩波を馬鹿にしてマドラ出版には出る式の「高尚」)には多くて、橋本だって『人工島戦記』や『少年軍記』を書く書くとひところ言っていて結局出してないのは、ここだけ高橋のパロディみたいだが(高橋の書けない病を知っているのも、年寄りの証拠なのかもしれないが…)、ようするに戦後生まれから「ただ好き」であることをある種の人は恥じるようになったという話なのである。もちろん恥じない人、まともな人はいっぱいいて、普通に小説を書いて、普通に小説を読んでいる。こういう「ただ好きであることを恥じる人」の濫觴が、筒井康隆小林信彦なのではないかと私は見当をつけているのだが…。