『性的唯幻論序説 改訂版』

国家論や史的唯幻論は納得できるのである、国家や歴史には身体がないから。

しかし性は心と体にわたる領域だから、「唯」幻論というわけにはいかないのではないだろうか。

幼児だって陰茎は勃起するわけで、親やその他の大人の監視がゆるい状況にあったら、子供は性交のまねごとをいたずらでやるのではないだろうかと思うのである。もちろん恋愛感情のゆえではなく、面白そうだから、である。

ヒトのオスが不能であることが人類の本質とはとても思えないのである。社会が拡大し複雑化する歴史の流れのなかで、婚姻や異性交遊のありかたにパターンができた(幻想が発生した)というだけなのではないか。私は性的半幻論である。「汎」ではない。

現代のもてない男は、かつてのもてない男よりも悲惨だとしつつ、若い男が風俗へ行かなかったり、女に高望みをしていることも岸田先生は指摘していて、じゃあやっぱりそれほど悲惨でもないじゃないかと思うのである。私は風俗行くし、女に対して理想がない。

綿矢りさの小説を岸田先生が引用していて(115ページ)、セックスする男が必死の形相で交接部を凝視しているという描写があって(たぶん騎乗位なのだろう)「そうなんだよ、あれの時に目ってどう扱っていいかわからないんだ」と私は勝手に膝を打ってしまった(しかし男のカメラマンが男優の顔を撮るかね。ここは女性作家の限界か)。相手のどこか体の部分を凝視しながら自分の体を動かすというのは、はなはだ具合が悪いのである(引用のシーンでは体を動かしていないのだけど)。

唯「幻」論。幻想というのは、聴覚よりも視覚にかかわるだろう。なぜ男は写真やビデオを収集するのだろうと思うのだ。セックスと、視覚というのは意外と相性が悪いのではないだろうか。

ヒトは獲得したコトバと現実をすりあわせようとする。猥語を知って、さかんに大人に言い囃す(男の)中高生のほうが、大人よりもよほど性的だと思う(女は仲間内で猥談を交わすだけで、男のように大人を「挑発」しないのだ)。この場合のコトバは文字というよりは音声であろうから、その音声に対応する「文字」として、現実の身体を「見る」のである。男性器は自分で難なく見ることができて、女性器はそうではない。この現実が(性)行動の差にもあらわれるのではないか。男の性(器)は単語で、女の性(器)は散文、とか…。

後半、岸田先生、江戸幻想を語ったり、『逝きし世の面影』に触れたり、いちいち小谷野さんの感情をさかなでするような行論で、もちろんわざとではないのだが(知らないだけ)、ちょっと笑ってしまった。