『卒業』

なんかイメージしてたのと全然違う…。

両親の過保護によって、自我の成長を疎外された青年が突然与えられたセックスに有頂天になって、成長することを忘れてしまう話。後半に、青年の不倫相手の夫が青年をなじるシーンがあるけれども、そこで青年が情事のことを「握手」と表現するのだが、この機微は面白い。相手の男を傷つけたい無意識の願望と、自分が大人としての責任をとりたくないという恐れとがないまぜになって「握手」という言葉を青年に選ばせたのだ。

前半はずいぶんじっくりと青年をめぐる状況の不毛さを描いているのに、後半はぐっと駆け足になってしまって表現もマンガ的なのだが、どういう意図があるのだろう。後年、ある種の深読みとして、クライマックスの駆け落ちが結局は失敗におわってしまうであろうことをラストシーンのベンの不安げな笑みが象徴しているのだ、という説が行われたけれども、ここはあいまいな表現にとどまっているのである。

ふつうに考えれば、親から与えられた赤いスポーツカーを(青年は親類からこのクルマで女をひっかけられるなとからかわれる。それに、これはこじつけだが流線型のデザインが怒張した男根のようでもある)乗り捨てて、黄色いバスに乗り換えるとか、親たちがよりどころにしているはずの十字架で親たちを足止めするとかの表現から、主人公たちは素直に成長へはばたいたのだと観客は受け取るべきなのではないか。エレーンがベンについていくことを決意したあたりの表現をみるかぎり、ここでエレーンも「私の親はおかしい」ということに気づいたのだろう。もしかしたらこのふたりはうまくやっていくかもしれないのだ。

成長というのは、親元を離れてまったくの新天地でひとりで勝手にやっていくか、親から受け継いだものをきっちり保守して子に伝えるかのどちらかしかない。ダスティン・ホフマン演じるベンジャミンは、「いいとこどり」ができるのではないかと甘いことを考えているのである。他人に向かってやたらに「説明」したがるこの主人公は、軽く病的である。そして子供をおもちゃと勘違いしているベンジャミンの家の両親も、子供に型通りの幸福をおしつけることしか考えられないエレーンの家の両親も、狂っているか壊れているのである。

スピルバーグの『A.I.』で、プールの底に沈むデイヴィッドのシーンは、この映画のオマージュだったのか。ベンがエレーンをストリップへ連れて行くのも『タクシードライバー』で変奏されている。