その父の子であることを受け入れて父による子殺しも受け入れる

どうも私にとっては『その土曜日、7時58分』のほうが『グラン・トリノ』よりも重要であるようだ。イーストウッドは、親子関係を描く意欲をみせびらかすことで、親子関係から逃避したい本心を隠しているだけなのではないか。そして、だからこそ、観客は安心して観るのではないか。

『その土曜日、7時58分』の最後で、フィリップ・シーモア・ホフマンは、アルバート・フィニーの子であることを受け入れてフィニーの手による「安楽死」を受け入れる。父は子への最後の「贈り物」を社会に邪魔されないように、心拍モニタの端子を自分の胸に移し替え、子の止まる心音を父は自分の心音にとりかえる。この機微にはぞっとした。戦後生まれの人間は、結局は自分のことしか描けないのではないか。『アキレスと亀』の監督が、『その土曜日、7時58分』のような作品をつくるだろうかと思うのである。

アキレスと亀』において、父は子の突然の死に茫然とたたずむしかない。ふとおもいついて子の死を造型しようとして母に止められる。父はみずからの死をくるおしく望み、果たせず、そのあがきを経たあとに、妻である子の母からの許しを与えられる。これを描いたのは正直であって、正直であることは美徳のひとつである。しかし、描かれた内容が悲惨なものであることに変わりはない。自我のなかに根拠はなく、子供しかすがるものはなかったと悟る『身も心も』の監督とあわせて、この世代は、正直に自分の心を告白したのだ。