『古希の雑考』
- 作者: 岸田秀
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2007/01/10
- メディア: 文庫
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「日本文化としての痴漢」を読んで連想したのが、『ぐるりのこと。』の裁判シーンで、日本人は集団のなかに入ることで、かえって心をさらけだすことができるのではないかと思う。プロ野球で優勝したり、大学に合格したりすると、胴上げというのをやるが(最近はやらないのだろうか)、あれはずいぶん性的で気味が悪いなとおもっていたのである。
岸田先生は列車内での男の痴漢と女の化粧を対にしているが、あれは化粧の時間がないから移動中に済ましているだけだと思う。私は、おじさんたちが非難するほどにはあれが気にならなくて、どうしてだろうかと自問したりする(女に規範をおしつけるようなことをいわないように自己規制しているのだろうか)。私は、列車内での食事はマナー違反だと考えているが、たまにジュースを飲むことはあって(満員時はさすがにしない)、これ、厳しい人は顔をしかめるのではないかしら。
「いまなぜ暴力か」を読んで、ふと『新世紀エヴァンゲリオン』のことを思った。「人類補完計画」とは「人類自殺計画」のことだったわけだし。自殺衝動と攻撃衝動はおなじことの裏表にすぎないことを、あのアニメはあっさりと示していて、いやだなとおもいつつも魅せられていたわけである。
平等で平和な世の中になると、人は差異をもとめて他人を検証したがる、と…。
ああ、さらに思い出してしまった。『完全自殺マニュアル』って1993年だったかな。いざとなったら自殺できると思うから生きていけるというあの本の主張は詭弁だと私はおもっていたが、そうではなかったわけだ。規範に従って生きることを拒否すれば、あとは自殺衝動=攻撃衝動をささえにして生きるしかない。