『唯幻論物語』

唯幻論物語 (文春新書)

唯幻論物語 (文春新書)

気になって読み返した。

要するに、子供にとっては、親の自己欺瞞さえも内面化するのは、トゥーマッチなので困難だ、という話なのである。内面化しないで、ほどほどにつきあっていれば(132ページあたり)、神経症を発症しなかったろうが、岸田先生はそうではなかったというわけだ。

自我論、社会論、国家論、歴史論はまったく唯幻論で説明できるとおもう(この説明できるというのは、唯一の回答であるという意味ではないわけだ。説明できるというだけである)。恋愛はともかく性交渉だけは、唯幻論というわけにいかないだろうな、というのが私の考え。

岸田説によると、「普通の」性交渉は、かぎりなく本能的な性交渉の模造品であるということになるけれど、これはさすがに眉唾だと思うのである。

つまり、私はリビドーという概念がそもそも眉唾だと思うのである。死の欲望は岸田先生もその存在を疑っているが、生の欲望もまた存在しなくて、行為の欲望があるだけなのではないか。生存そのものに形式や構造はないが、行為は自我が要求する幻想だから、形式も構造もそなえていると思うのである。

そういう意味でいえば、咀嚼・嚥下や排泄は、私には本能であるとしか思えないので、口唇期や肛門期というのはナンセンスだと思うのである。摂食や排泄は、文化によって制限を加えることで、「行為」であるとみなしているのではないか。それらは実際には「生理現象」であって、行為ではないだろうとおもうのである。拾い食いや、歩き食い、立ち小便、野糞のたぐいはしつけによって禁止される。しかしなにも、これはわざとそうしてやろうとしてする「行為」ではないわけで、それこそ無意識的にする「生理現象」にすぎない。