私小説

大江と聞いて「死者の奢り」や『万延元年のフットボール』を連想すれば、その人は大江を私小説作家だとはおもわないだろうが、『静かな生活』や『取り替え子』を思い出せば、まあ私小説「的な」作家だとは思う。

案外私小説の対象は拡大しうるのだという小谷野さんの論にはそれほどの疑問は感じないけれども、しかし、だったら私小説という概念が別に重要でなくなってしまうのではないか、と思うわけだ。

もしふたつに大別するとしたら、身の回りの事実から発展させたモデル小説と、こうあるべしという理念からでたある種神話的な理想小説とにわけられるだろうか。しかし身辺の些事をそのままつづっては結構が保てないし、たんなる英雄譚など、現代ではよほどの趣向が要求されるだろうから、結局この二分法は、創作のとっかかりを示すだけにすぎないようだ。

書き手の人柄で読者をひきつける小説と、キャラクターの魅力でひきつける小説と、物語の波瀾万丈さでひきつける小説という分類はどうだろう。いわゆる私小説だと、前二者の項目において腕によりをかけるということになる。

大江の「私小説」が面白いのは、本の中身にたいする理解や感想を膨大に挿入する点だ。「ふつうは」、何かしらの作品についての感想をあげて、それがどう主人公の意見や行動に影響するかを描くわけだが、準拠する本が膨大すぎて、主人公は何も出来なかったりする。あるいは本と主人公との関係が読者には明瞭でなかったりする。