私小説に、明治末年前後に成立したああいう感じの小説というイメージが形成されたから、大正モダニズムやプロレタリア文学、新興芸術派、日本浪漫派がでてこれたという側面があるのじゃないかしら。それぞれの「流派」にとっての先行形式である「私小説」への思いもあったのではないか。
太宰の「桜桃」など、作家の伝記を私は知らないからどこまで虚構なのか、あるいははじめからそうなのか知らないけれども、まあ私小説だとおもって読んでしまう。
「あの」感じとして私小説をイメージする者の心には、もう、「時間」が入っているわけである。