栗本薫に入れ込みかける

が、入れ込まない。かわりに入れ込んだ人の文章を読む。

森茉莉のような古文調や旧字体ではなく、現代の言葉で書かれたまよてんのような話なら。

「自分でも書けるかもしれない」

そう思わせた、それこそがモノリスの所以なのだ。
http://unasama.at.infoseek.co.jp/kurimoto/79.html

真似と文化と幻想(ファンタジー)ということを、自分にしてはいやに深刻に考えている。記紀神話って、ようするに当時の支配層のファンタジーなわけじゃないですか。文化というのは言葉がつうじる間柄でないと成り立たない。それはやおいも、記紀神話も同じだろと思う。

 むかし、筒井康隆のエッセイを読んでいて、榎本健一その人になりたかったと書いてあったのにひっかかったことがある。憧れて、エノケンのようになりたかった、のではなく、エノケンその人になりたかったと無茶なことを言うのである。『族長の秋』を読んで、なんだかいたたまれない気持ちになったこともある。ラテンアメリカ文学が好きだと自己申告すれば、ここまで似させても大丈夫なのか、と。

 森茉莉栗本薫の関係って、吉本隆明鹿島茂の関係のようなものだったのか。『真夜中の天使』と大量に存在するやおい小説の関係は、『日本書紀』と『神皇正統記』の関係のようなものか。

http://unasama.at.infoseek.co.jp/kurimoto/ochakai.html

↑この文章も必読。まあ内輪に入っちゃえば、普通なんだろうけど。内輪と外部の関係って、難しい。