ファンタジーのありか

そういえばまず第一に、ファンタジーの在処は家族なのだった。

小谷野さんがディケンズは当時の大衆文学ではないということを言っていて、それはわかるのだが、真面目な文学と通俗的な文学との違いは、歴史が下るにつれてその関係がいろいろ変わっていっただろうから一概にいえないのではないかとも思うのだ。

ドン・キホーテと当時流行の騎士道物語との関係と、ディケンズと当時の流行小説との関係と、ジョイスとクリスティーとの関係は、それぞれちがうものなのではないかと思える。とくにディケンズは読まれる努力をしたはずだし、当時の流行小説と対立的であったとは思えない。

西洋近世近代の一般民衆の言語体験なんて、神父や牧師の説教と、演劇のセリフと、家族や仲間との噂話くらいしかなかっただろう。テレビも映画もラジオもなかった。識字率だって低かったから、小説を趣味で楽しむのは上層の人間が主だったろうし、そういう人間たちも、道徳は神が裁量していたから、安心してファンタジーに浸れていた。

大衆文学という場合の大衆というのを、無反省な人々のこととするなら、セルバンテスディケンズジョイスの間にはやはりギャップがあると思ってもいいのではと思う。