キャラと物語

小池漫画の主人公が「キャラ」だとすると、手塚マンガの主人公は「人格」というところか。『ばるぼら』の主人公の作家などは、小池漫画の主人公みたいな蘊蓄言いだけれど、「キャラ立ち」している感じはしない。


異端としての手塚という切り口は、わりと平凡なものになってしまったが、小池漫画を読むようになって気づいたのは、手塚には剣豪小説的な感性が欠如していることだった。手塚の嗜好はミステリーやSFで、こちらはかえって小池が不得手にしているジャンルだ。『連環日本書紀』はオカルトSFだったが…。


手塚治虫がいちばん小池一夫に近づいたのは、『奇子』や『MW』の時期だろうか。それでも手塚は過剰さを嫌うところがあるから、これらの作品にもほどの良さのようなものは残った。


劇画は、描写をリアルにすることで、読者が入りやすくなった「夢」なのではないか、というのが最近の仮説だ。少年マンガは明晰すぎて、かえって夢の感覚に欠けている。『聖闘士星矢』は明朗な絵柄で、あますところなく世界観を言葉で説明するあたりが、少年マンガの王道という感じだ。当時のジャンプ読者は、絵柄によってバトル漫画を選択できたわけだ。北斗と星矢とDBと。


アニメもまた、夢の感覚を演出するのはむずかしい。『ビューティフルドリーマー』は、夢というより悪夢のそれで、かえって明晰だった。『パプリカ』もまた、そう。悪夢には、それが悪夢であることの「実証」がある。ジャンプ路線というのも、ようするに「実証」だ。小池漫画には「実証」がない。そこに独特の雰囲気が生まれる理由がある。


小池漫画には「実証」がなくて「説明」がある。たえまない説明が、読者に催眠術の役割を果たすのではないか。