日本人のヘーゲル・コンプレックス

歴史がランダムだといいきる自信は私にはないけど、しかし、日本歴史に古代やら中世やらつけるのは便宜でしかなくて、日本にあったのは記紀以前、律令時代、武家支配、明治以降くらいしかないのだとは思っている。

社会や歴史に法則がなかったにしても、文化や文明は集積していっている(不要になった技術は情報だけでも残す)ので、なにがしかの法則性は感じざるをえない。歴史法則はないとはいいきれないが、小谷野さんのニュアンスはわかる。

ただ明治以降の日本の体制は欧米を手本としているので、資本主義という思想と貿易という実践によって歴史法則にしたがっているかのように発達してきたという事実がある。それに綻びがみえはじめたのが、すが秀実のいう1968年史観ということなんでしょう。

それこそ梅棹史観のように、マケドニアやローマやモンゴルなどの大帝国が辺境に影響をあたえ、かつて辺境だったスペインやイギリスや列強諸国がいま大きな顔をしている。これは法則なのかどうかわかりませんが、形式ではありますよね。圧迫された辺境がおしかえしているという意味で。

たしかに未来そのものは予測できないけれど、もしXXでなかったらという仮定を増やしていけば未来はあるていど予測できる。確率が入ってくるけれど。仮定というのはつまりは知識であり教養であり、リスクを軽減するための材料。

そんなに人間は自己の生が有限であることに不安を抱いてるんですかねえ。「自分は死なないと思ってる」なんて、それこそ人間の条件ですらあると私なんかは思いますけど。現世での望みを達成したと自認した(らしい)道長は晩年仏教に凝ったそうですけども、自己の有限性をなやむなんてのは天皇外戚ベルリン大学フライブルク大学の総長くらいのものなのではないですか。それを人類の宿命のように観ずるのは現代の超コミュニケーション社会の錯覚に毒されているからではないか。