『ゼロの焦点』(小説)

とうとう清張童貞を卒業した。たしかに面白い。新潮文庫版解説の平野謙は一部の被害者が殺される動機が弱いと述べていて、これには同意できなくもないがあまり気にならない。全体的に、主人公を含め登場人物の心情描写が客観的で、淡いのだ。しかし、これは同時に日本人に受けるポイントでもあるだろう。

 それにしてもこの小説の後半の筆運びは独特だと思う。ミステリには詳しくないのであるいはそうでもないのかもしれないが、主人公の思弁を著者が客観的な文章に直して、つまり橋本治のように女言葉で地の文章を構成せずに、最後までいってしまう。犯人に出会うことすらなく、犯人の係累と会うだけなのだ。この読後感ははじめてのものだ。

 というよりも、こういう小説があったから、その二十年後(『桃尻娘』はこの小説からそのくらいの時間がたって登場した)に橋本治は性別を越えてみたわけだ。男の作家が地の文として女言葉を語ったのは、案外少ないのではないかと思う。まずは土佐日記があって、(中世近世はわからず)谷崎があり、ほかにも何人かの作家はやっているだろうが、中間小説ジャンルではどうだったのか。宇能鴻一郎はこの後だろうし。

 性に関わる事象を主題にしているのに、物語や語彙が性に潔癖というのが清張文学ということか。だとすれば日本人に受けるというのはわかる。むっつりすけべ文学というか。

 野村芳太郎版の映画DVDは、米アマゾンでみたのだが、「ゼロ・フォーカス」という題名だった。仮説を捨てていく後半の構成をカメラのピント合わせにたとえたのはわかるのだが、変なタイトルだと思う。

http://ja.wikipedia.org/wiki/F%E5%80%A4

 理想としてのF値ゼロということなのか。最後のシーンでは、主人公は去って行く犯人をかろうじて見ることはできても、距離がありすぎて黒い点としか認知できない。優秀なレンズさえあれば、ということか。




 そうそう、小説の後半、うまい具合にラジオなどで主人公に必要な情報が入ってくるご都合主義を、まあ娯楽小説だからなと軽く読み流していたが、この小説の陰画に『虚人たち』を想定するのはどうだろう。自分だってご都合主義をさんざんやっているのに、松本清張筒井康隆をいじめたわけだ。おおかたの作家は、そういう場合は事実に取材した「真面目な」小説を書いて先行者にたいする面目を取り戻そうとするのだが、天邪鬼の筒井は逆を行ったわけだ。