『渡された場面』

「おまえは、文芸雑誌ば見とらんけん分るまいばってん、新進作家の小説は文体からして前とはころりと変っとるばん。新しか世代の新しか文学ばさげて、どんどん進出してきとる。こげな古臭い文章ば書く小寺康司はもうダメたい。小寺もそれが自分に分っとるけん、書けんとたい。行きづまっとるとじゃ。おまえが見た小寺康司の苛々は、その行き詰りと、新しか文学の書き手の進出とにおびえとるんじゃ。ほら、おまえも名前ば知っとる芥川龍之介なあ、自殺したろ? あの自殺でんが、新しか文学の起って自分がそいに敗けそうに思うて、そいにおびえて睡眠薬ばよんにゅうに(たくさん)飲んだとたい。漠然とした不安、という有名な言葉の遺書ばのこしてなァ。古か文学は、新しか文学の前にほろびるとたい。おれはな、その新しか文学ば書いとるとじゃ。おまえには、こいがよう分るまいのう。せっかくばってん、小寺康司のこの文章ば書き写してきよっても、おいにはなんの役にも立たんば。」
松本清張『渡された場面』 全集第40巻24ページより)

 これは筒井康隆の小説でも、村上龍の小説でもなく、松本清張の小説から引用したものだ。

 清張は、筒井を憎からずおもって『発想の原点』収録の対談にも筒井を招いたのだが、筒井は居心地悪かったのだろうか。清張も、推理小説の新しい潮流にいらだって、どうせ出鱈目やるなら筒井君ぐらいやったらどうだという気持ちもあったのかもしれない。アンチ東京、アンチ標準語という点では意気が合うところもあったろう。

 『大いなる助走』は、多分に『渡された場面』への回答という側面がある。筒井の小説に珍しいタイトルも、清張のタイトルのつけ方のパロディだと思えば腑に落ちる。清張が、『大いなる助走』に怒ったというのも、ありそうな話だ。せっかく親愛の情を示したのに、なぜ噛み付いてくるのか。清張がそう思ったであろう事は想像に難くない。

 しかし、可能性はもうひとつある。

 ようするに清張と筒井が裏で通じていて、読者を楽しませるために、ふたりして諍いをでっちあげたのではなかろうか、というものだ。プロレス界では、「アングル」と呼ぶらしいが。