「推理作家が推理してなにが悪い」か

新装版 日本の黒い霧 (上) (文春文庫)

新装版 日本の黒い霧 (上) (文春文庫)

 これを読んだのち清張のエッセイ「小説のなかの「私」への疑問」「大岡昇平氏のロマンチックな裁断」(全集第34巻収録)を読むと、清張の主張とは反対に、たしかに大岡昇平の不満がわかる気がするのだった。たしかに清張が引用した大岡の文言を読むと、大岡は口が悪い。あるいは(作家への評価としてどうかと思うが)口下手のようである。

 『日本の黒い霧』は文庫新装版の上巻しか読んでいないのだが、ネットには有名な本だけあって、各有志による梗概がごろごろしていて、下巻の内容もだいたいわかる。

 これら日本被占領期の米軍の暗躍(による情宣)が朝鮮戦争(への日本の参加)に結実して、マッカーサーは当初アジア全域を戦乱の渦に叩き込むつもりだったらしいこと…。「警察予備隊」から「民主日本軍」が編成されて朝鮮に送り込まれたら、と想像すると面白い。とはいえ、しかし、こんなのも現実に反した仮想に過ぎない。すくなくとも朝鮮戦争はアジア大戦に拡大しなかったし、日本も朝鮮戦争の戦闘には参加しなかった。

 おわったことのいくつかは記録に残る。記録を再構成し、考証のフレーバーをふりかけて、おわったことがまだおわっていなかった、その当時の「現在」を定着する。それは人情としては自然なことだろう。材料も現実だし、料理も現実だ。しかし調理の事実は、一定の期間を置いたら消滅してしまう。材料も、料理も、調理のさいにおこった一切を証立てきることは困難であるのだ。しかし、だからといって昨日のオムライスと今日のオムライスは違うのだと言い張ることに、実用的な意味はあまりない。

 大岡は、「面白いけれども、面白いだけだ」と憎まれ口を叩くだけでよかったのではないか。