戦争における暴力の本質的不均衡

クリムゾン・タイド』を見直している。

 戦争は平時の暴力とちがう。平時の暴力は均衡を目指す(やられたらやりかえせ)のに、戦時においてはそういう平時を目指して一方的に相手を殺さなければならない。やったあとにやりかえされた戦争は、失敗した戦争だ。

 『クリムゾン・タイド』で、今が平時か戦時かを判断する手続きをめぐって、ジーン・ハックマンデンゼル・ワシントンが対立する。日本人にはおよそ馬鹿馬鹿しい映画だが、アメリカ人には考えるに足る問題をあつかっているわけだ。しかし、日本人もこういうことを真面目に考えるようになれなければ、日本の近代はいまだ遠いと言わざるを得ない。日本人にはジレンマに立ち向かう発想がないのだ。ジレンマに立ち向かう勇気、どころではないのだ。

 『イングロリアス・バスターズ』は、戦争を舞台にして平時の暴力を扱っているので、なんだかヘンに感じるわけだ。エンディングの方でもブラピが触れているけれども、バスターズたちは、とくに政府から支持・支援されているわけでなく、「まあそういうのもいてもいいよ」と放っておかれているだけなのだ。アメリカ映画から放っておかれている遊撃隊のようなタランティーノ自身のことがバスターズに二重写しになる。