『デス・プルーフ』を見直したら…

デス・プルーフ』後半のゾーイ・ベルたちは、スタントマン・マイク(いま気づいたけど、本当はスタントマンじゃないかもしれないんだよね…)に殺されかかったので、スタントマン・マイクをやっつける権利はあるわけだが、『イングロリアス・バスターズ』では、ナチスの悪行は周知のこととして(?)劇中ではとくに描かれないために、終盤の虐殺シーンは後味が悪い(はじめのほうでランダが部下たちに床下に隠れたユダヤ人家族を射殺させるが、その死体は描かれない)。イーライ・ロスたちが決死隊として奮闘して、彼らもまた彼らから一方的に射撃をうけるナチス高官たちと運命をともにして爆死するから、まあいいかなあ、という気になる。しかし情報によると、タランティーノらはこれを観客がスカッとするシーンとして演出したようだ。

 ユダヤ人の死体描写は丁寧に取り除かれているわけだ。あ、ショシャナは死体になったか…。ユダヤ人を襲った悲劇に対しては、へんにりきんで彼らの気持ちを代弁しようなどとはせず、他人事として接するのが礼儀というマナーにタランティーノは従っているようだ。

 それにしても『デス・プルーフ』の前半は、巧妙な異性愛否定の映画であることだ。私は繰り返して見なければわからなかった。恋愛遊戯を楽しんでいるようで、じつは思うようにはいっていない女を描いていたのだった。私は鈍感だから気づいてなかった。そういう状況をタランティーノはネットリ描いているのだった。これは名匠の作品ではないか。タランティーノを見直した。ゾーイ・ベルらの女スタントマンたちがスタントマン・マイクに勝つことは、レストラン到着前の車中におけるセックストークで予告されていたのである…。