こんぐれす・まん

 代表するとか理念の下に結集するとかは、江戸時代にはどう考えられていたのか。学問はだいたい官製で、禁制に触れなければまあ無視にちかいかたちで許されたらしい。こういうのはやはり明治からで、(不平)士族の受け入れ先というのが教科書的な知識。

 議論するということを日本人はどう実現してきたのか。決めたことをそのまま実行できていたのか。日本人にとって「相手・対手(あいて)」とはどういうものだったのか。仰ぐか見下すかしかなかったのではないか。

 四民平等といったって、ようするに自営でがんばってねと、放り出されたようなものだ。だから大学で専門知識を学ばねばならなかった。知識が「手に職」のかわりになった。なぜ「手に職」だったのか、手に職能が染み付いていれば、あとは生きて仕事場に出向いていれば仕事をこなせて、食っていくことができたからだ。江戸時代の都市民は租税を免除されたかわりに国家の援助もなかった。