ファンタジーとドラマ

あたえられた世界の中でやりくりするのがドラマで、主人公の成長の過程でそれが必要となったら世界さえつくりかえればいいのがファンタジー、かな? 『ジョジョの奇妙な冒険』や『ドラゴンボール』など、あとづけの設定が何度もでてきた。

 それだと型にはまった時代劇や、「サラリーマンのファンタジー」などと呼ぶ対象は、いわゆるファンタジーとはすこしちがうことになる。マトリックス(母型)というほうが近いのかな?

 いま『永遠のマリア・カラス』を見終わったところ。ゼフィレッリがじっさいに親交をもった、カラスの、「なかった話」を描いているのだから、ゼフィレッリにとっては、この映画はファンタジーということになるのだが…。ゼフィレッリの人生がこのようなファンタジーを必要とした。視聴者である私は、複製芸術時代についてのゼフィレッリのエッセイを映画に見る。それがいつしか複製芸術時代という制約をこえて、人類歴史と芸術の関わりという普遍へつながる。ゼフィレッリ本人は、マリア・カラスの、たぶん暗かったで「あろう」晩年を見たの「だろう」、と、「私は」思う。