場所と主体
『ブヴァールとペキュシェ』も『ゴドーを待ちながら』もタイトルしか知らなかったので、ウィキペディアであらすじを読んだ。『ブヴァールとペキュシェ』のあらすじには笑わせられた。
『ゴドー』のウラディミールとエストラゴンが家なしというのが面白い。主体は客体を必要とするし、家などさしずめ主体にとってのはじめての客体といえるか。客体を排除した舞台のうえで、主体が溶解していく。しかしふたりはもともと家なしだから溶解度はひくいままだ。
家にいすわる。家を出て稼ぎにいく。家に帰る。家を守る。
これで「木」なのだ、というそっけなさが笑いを誘う。ベケット本人の演出。
ミュートにした『TANKA』の画面をだらだらと流しながらこれを書いている。映画だからあたりまえとはいえ、シーンごとの場所が明確だ。まずはそこがどこであるかを決めるのが通常の脚本作法でもある。中年の愛人の部屋、若い愛人の部屋、自室、事務所、カラオケボックス…。