なぜpseudo"couple"なのか

『名づけえぬもの』を未読のまま言ってしまうと、孤独な人の独白は、現在はともかく過去には話者が主体として確固としていたことを証明してしまうからだろう。pseudo-individualというのは成立しなさそうだ。『ゴドー』の哲学をかたる奴隷ラッキーがいい例で、過去のどこかの時点で彼はその文句を知った(知る主体となる経験をした)のである。

こういうことを考えながら『TANKA』を眺めているのも、不気味な共鳴現象だ。pseudoでないカップルなど本当に存在するのだろうか。主客の明確なカップルなど、カップルではなくて、たんなる男と婢か、女と僕の組み合わせにすぎない。