『もののけ姫』

ほどよく忘れていたのでついひきこまれた。

今回はじめて気づいた点。

生まれ育った村でアシタカヒコと呼ばれた主人公はタタラ場の村ではアシタカと呼ばれる。「千と千尋」で明瞭になった「あだ名をつけられること」は、もうこの作でも行われていた。

主人公の物語は、シシガミが痣を癒さなかったことをうけてアシタカ本人が宿命にしたがう決意をしたことで、いちおう完結している。以降の映画の流れは、神殺しに魅せられるエボシの物語と、モロや森のもののけたちの死に直面するサンの物語(サンの身になってみたら、これはけっこうキツイ物語だぜ…)、人と自然の調和をはかりつつも(人の)生を肯定するしかないアシタカヒコの物語(アシタカヒコの物語としては、すでに後日談に入っている)に分岐している。

(シシガミにその頭をかえしたことでアシタカの痣が薄くなるのは、王蟲によってナウシカが生き返るエピソードみたいで、ないほうがいいと思うのだが…)

エボシは「ナウシカ」のトルメキアのクシャナ姫の変奏だが、より近代的に改変されている。クシャナは王女だから、王女らしくふるまったわけだが、エボシは切れる人間だったからタタラ場の住民に信頼されていた。神殺しさえくわだてなければ、エボシは片腕を失うこともなかった。クシャナは自然(巨神兵)を道具につかえると思っていたが、エボシはそこまで傲慢ではなかった。

タタラ場の村は食料自給していない。鉄を売って得た金で食料を購入している。エボシも腕力ではなく頭脳で道をきりひらいている。「下界に比べりゃずっといいよ。おなかいっぱい食べられるし、男もいばらないしさ」。なんだかアニメーターの生活のことを言っているような…。(タタラ場では、育児とか教育とかはどうしているのだろう)

父王を殺されたことを知ったナウシカは逆上してそこにいた兵士を皆殺しにする。自然破壊をやめる気配のないエボシに怒ったアシタカ(タタリガミの呪い)は刀を抜きかかるが、それを必死におしとどめる。前者において映画的快感に素直に従った宮崎駿が、「キレることの心地よさ」を反省してみせた一幕。

ジコボウとアシタカが語らう荒れ地は、もしかしたら阪神大震災のことを示唆しているのか。

まあくどいほど「自己犠牲をするな」とくり返していることよ。まったくそのとおりだと思う。この一点において映画版ナウシカを全否定(そういえば死ぬのはモロやオツコトヌシ、名もない侍たちだけ)。「生きろ」というのは、そういう意味だ。サンは自己犠牲をよいことだと思っていたが、最後の最後で変化の兆しが訪れる…。