亀を追うアキレスと飛んでいる矢の関係

アキレスの逆説は、「亀を追い抜く瞬間までは決して追い抜くことはできない」という意味であるという話は前にした。しかし矢の逆説は面白い。運動を分解したら運動は消滅するか。まあ消滅するのである。運動を映画のカメラで収録すれば、一定の要領で並んだ分解写真のフィルムとなる。フィルムは定着物であり、死に物である。フィルム上の連続写真は運動ではない。連続写真を記録したフィルムの画像を一定の手順で交換しつづけると、画像が動いて感じるだけなのだ。以下は断片的な随想。

1)映画は1秒24コマでビデオは30コマなどと、動画システムはわりと画一的に整備されているけれど、無数にまちまちだったら面白い。1秒15コマくらいのちらつき映像から、2000コマくらいの美麗映像まで。

2)しかし、飛んでいる矢を「飛んでいる矢だ」と思って撮影するから、そうなるのである。仮定として、カメラに意志があって、矢と同じだけの「運動」能力があったと考えてみる。するとたちまちアインシュタインパラドックスにまでいきついてしまう。飛んでいる矢を動画カメラで撮影しているのに、その映像は止まった矢がうつっている。

3)映画は運動ではないのだ、とする見方も、別に詭弁ではない。おなじことをくりかえすのが運動であるわけはない、というのはまっとうな感覚である。映像で再現された運動は、運動の写し身にすぎないのだと。

4)物自体をひとは感受できないように、「運動自体」もまた感受できない。われらは外部に生起する現象をうけて「運動」を記述するだけなのかもしれない。