さまざまな死体

大友克洋の「Nothing will be as it was」は、ひとりしか死なないのに、その死体の描写は克明かつ綿密におこなわれる。クリストファー・ノーランの『ダークナイト』で、ジョーカーとその一味はさんざんに人を殺し回っているのだが、死体描写はわずかに市長暗殺を予告するシーンにあらわれるくらいだ。


ジョーカーにとって人殺しとは、操り人形の糸を切るくらいの軽いものでしかないのだろう。警察署の留置所で見張りの刑事を挑発したさいに述べたほどにも、ジョーカーはナイフで人を殺していないのだ。たぶん殺人を楽しむことに興味がないか、この時点で飽きていたのだろう。このキャラクターが口にする言葉は嘘ばかりで、それは呆れるのを通り越していっそ感嘆してしまうほどだ。


ダークナイト』の作品内で死体描写が極力避けられたのは、つまり観客にもジョーカーの「殺人観」を共有してもらおうとする監督の禍々しい意図に基づいている。ジョーカーにおいて、バットマンのみが見つめるに足る対象なのだ(突進してくるバットマンを「Hit me!」と挑発するシーン)。そのバットマンの、これからは本当にアウトローと看做されることを受け入れるという、苦痛に満ちた決断も、しかしその根拠が誤解に基づいていることを、ただふたり、アルフレッドと観客だけが知っている。ジョーカーはバットマンを必要としていて、それはバットマンの身元に関する無知ないし無関心にささえられているが、観客はジョーカーのような「楽しい立場」に安住することすら許されないのだ。