三島由紀夫と石原慎太郎

三島がボディビルをはじめた直後くらいに石原慎太郎が登場して、三島は自分がやってきたことの意味をはじめて意識的に理解したのではないか。そうか、自分は、強がっていたのか、と。『鏡子の家』以前以後で、三島文学は、「無意識的に強がっている」前期と、それが意識的に変わった後期とに分けられるのではないか。

三島は自分にとって石原が自分を叱咤激励する存在だったことを死ぬまで隠していただろう。さいわい石原は自分の教養を無意味とみなすほどの馬鹿でもなかった。三島の教養を三島の存在から切り離してそれには敬して遠ざかるほどの遠慮はあったから、石原とつきあってこれた。

もし三島が石原に先んじてすんなりと衆議院議員になれてしまったら、三島が自殺することはなかったろう(石原が衆院に鞍替えするのは三島の自殺のあとのことだ)。議員の目もなくなって、三島が石原に優越する道は、英雄的な死を自分にあたえることしかなくなった。要するに、石原も三島も、わたしたちとは違う世界を生きているし、生きていたのだ。違う世界観のなかに生きている。戦争によって祖国が滅亡する甘美な終末世界。

最初から強がることで社会から認められた石原慎太郎は、いまでも強がっている(なんだかそれこそスコセッシ『カジノ』のエンディングのようだ。姿形は似てないがジョー・ペシが三島というわけだ。デニーロならぬ慎太郎は執務につかれてふと知事室の窓から外を眺めるわけだ)。強がる対象が死んでしまえば、彼は相手を憐れむしか道がない。だから石原はいまでも三島を憐れんでいる。これもまたひとつの「いじめの風景」ではある。