儒教の世代

『秘本世界生玉子』読了。この本の後半にキリスト教と仏教が出てくるが、儒教については触れられない。しかし生き方を説くこの本の趣旨から言って、橋本は儒教的であったのだ。呉智英といい、世代的な感性だったのだろう。そういえば孔子は同性愛について語っていたのだろうか。

後年の『宗教なんてこわくない』だって、キリスト教や仏教からの離脱を説くものであって、橋本の儒教的感性はキープされていたのだと見ていい。たまたま呉智英がさかんに儒教をすすめたので橋本のそういう側面が見えにくくなってしまったのだった。

文庫版323ページの最後の段落にあきらかなように、橋本はタナトスデストルドーを認めたくなかったのだ。そういえば橋本が他人を引きずりおろす文章や、自分を卑下する文章は見かけたことがない。その橋本が(旧)社会否定の立場を取ったのとは対照的に、フロイトは社会の存在を前提としたからタナトスを認めざるを得なかった。そりゃあ社会がなければ、変態行為だって変態行為とは認識されないのに決まっているのだ。