論述的正確さから離反したがる「サブ文法」

というのが日本語にはあるのではないかとおもうのだが…。言葉であって言葉でない、要するに「心である」という感じを込めたがるのが日本人というか…。英語あたりには、すぐに成句慣用句をつくりたがる「ブロック化動機」が強いのではないか。

カルト宗教を考える時には、言語という観点から入っていくのがあるいは近道なのかもと思えるような…。