三島由紀夫『音楽』とウィリアム・フリードキン『エクソシスト』

音楽 (新潮文庫)

音楽 (新潮文庫)

分析医の汐見が、久しく現れなかった患者の麗子を診察する準備を、夜の都会の人もいなくなったビルの一室で、愛人兼看護婦の明美とするのだが、それが台風の日の宿直に喩えられたりもしているくだりで、ふと私はべつの映画のことを思った。なんだかこんなシーンをかつてみたことがある。そうだ『エクソシスト』じゃないか。そう思いながら読み進めると、なんと数ページ後には「悪魔」の文字が印刷されていて(文庫改版版186ページ一行目)…。

汐見は結婚せずに明美事実婚のような関係を維持していて、しかもそれについて小説中ではいかなる言訳もなされないので(汐見に意見する親類などは登場しない)、かえってなんだか異様なのだが、これは現実の三島の結婚生活の変奏であったのだろう。日本のゲイの最高峰のひとりである三島に、世間一般の道を説くほどの剛胆な親類はいなかったのだ。それどころか、そういう世間をあざ笑うかのように、三島は世間の非難を先取りすらしてしまう。子供(赤子)というのが、この小説の後半の重要モチーフとなるのだが、もちろん三島自身に子供がいたからこそこういうことが書けたのである。ゲイにして父親でもあった三島は、ある意味で完全無欠だった。この見事な小説に対して、解説の澁澤龍彦の文章がずいぶんとすっきりしないでぐずぐずしていることの理由のひとつには、それもあったであろう。子作りという事業に、澁澤は踏み込めなかったからである。三島にとって汐見は創作物であり一個の洒落であったが、澁澤にとって汐見のような存在は洒落にならなかったのである。死ぬまぎわの三島が、この小説の解説者に澁澤を指名した皮肉を思うのだ。

フリードキンの映画の意味が、『音楽』を読むことで、私には明瞭に理解できた。フリードキンの仮想的な自殺の試みが『エクソシスト』だったのである。カラスが母親とのあいだに抱いた懸隔感の理由は、じつは自己が同性愛者であることの悩みだったのだ。妻帯を禁じられたカトリックに逃げ込むことは、それへの対症療法に過ぎなかった。そのような臆病な自己を罰するためにフリードキンは、もうひとりの自分であるカラスに投身自殺させたのだ(フリードキンの前作も、臆病さから程遠い「男」を追求するテーマの映画であった)。(ポランスキーをモデルにしたとされる)映画監督が少女リーガンにいたずらし、そして「自殺」する。自分の手で映画監督を殺せなかった少女はヒステリーを病み、それがポルターガイスト(騒がしい霊)現象となって家族を悩ませる。少女を捕えた「性的虐待」を、霊という形で、男は、引き取り、自らのうちに住まわせて、直ちに自殺する。フリードキンのファンタジーが結実する瞬間である。映画監督は先行する映画監督(なにしろ『ローズマリーの赤ちゃん』の監督なのだ)を罰することで映画監督となる。こうまで『エクソシスト』がヒットしたことが、フリードキンには愉快でたまらなかったろう。