恐ろしい本である

ライ麦畑のミステリー

ライ麦畑のミステリー

『ライ麦畑でつかまえて』についてもう何も言いたくない―サリンジャー解体新書

『ライ麦畑でつかまえて』についてもう何も言いたくない―サリンジャー解体新書

サリンジャーの小説の謎本なんであるが、著者は夭折した女友達の死んだ意味をサリンジャー読解を通じて発見しようとしているようなのである。「もう何も言いたくない」といいつつ続編を出して、そちらのほうの後書きにはユングが言及されていたりして、ああこわいこわいと思うのである。

小説の作者にとって衝撃的な経験を、いったん抑圧し加工し再構築するのがフィクションの作業なのに、著者はフィクションから作者が被ったトラウマを復号しようとしているようなのだ。ユングだの錬金術だの、ああ恐ろしい。

ライ麦畑』の25章の雨の意味だって、ふつうに読めばそう不可解ではない。分別盛りの大人だったら、突然雨に降られたら煩わしく感じるだろうが、ホールデンはそういう大人ではないのだ。雨になったら、子供ならかえってはしゃぐくらいのものだ(ホールデンは子供でもないからはしゃぎもしないわけだが)。また、26章でホールデンがアックリーやストラドレイターたちを懐かしく思い出すのも、「いいも悪いも決定しなかったイエスの姿勢を引き継い」だからというよりは(『何も言いたくない』142ページ)、彼らがもう自分(ホールデン)に対立したりはしない単なる「語られた対象」になりさがったからと理解することが自然であろう。

ジェームズ・キャッスルやアリー・コールフィールドに魅せられて、彼らと同じ境地へ行こうとして行けなかったホールデン・コールフィールドは、自分の経験や感情を語るという方法で、フォニーな世間にも、「今生きているほかの連中より千倍くらいいい」死者たちにも組しない第三の道を見つけたのだった。26章が付け足されることで、『ライ麦畑』の物語は一個の世界として完結し、ホールデンはその世界の創造主となったわけである。