飲み込めんよ…

ユリイカ仲俣暁生の文章は承服しがたい。『桃尻娘』と『リア家の人々』が重ならないというが、読んでた人は(両作を隔てる時間の流れも体験しているのだから)重なると思うのだが。にっかつロマンポルノを「ポルノ映画」と呼び換えるのもどうかと思うし(間違っているとはいいきれないだけにかえって悪質である)、「三流劇画」や「ポルノ映画」らそのものを論じたのではなくて、それらを通して性や人間を論じたのに(あの本における橋本の議論も、もはやあまり承服できないが)。

私はたまたま最近村上春樹を集中して読んだから仲俣の文章にも最後までつきあったが、どうしてこう村上春樹を論じる人は「つじつまあわせ」に熱中するのだろう。私は、村上春樹というのは『羊をめぐる冒険』で自分のことを語り尽くしてしまった(あるいは今後絶対に語らないことを決意した)ので、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』以降は、えんえんと創作についての喩え話を小説に造型し直している作家だとしか思えないのだ。橋本の小説とおなじように、村上春樹を正当に論じる、つまり、そのうまさを論じるという人は、どうも少なさそうなのだ。それをしたら橋本や村上の小説が「サブカルチャー」であることが歴然としてしまうからだろうか。