『日本文化論のインチキ』

もてない男』から10年たって、小谷野さんがあの本こそは恋愛弱者論の嚆矢だったのだと念を押している。それ以前の散発的な先触れは小谷野さん自身が『恋愛論アンソロジー』に纏めてしまっているので、実際もそういうことになるのだろう(これは厭味)。私なんかは当時は子供だったから、小谷野さんが恋愛に飢えていることは気楽な冗談と思い「スルーして」、おまえら低学歴者はアメリカの首都をニューヨークだと思っているだろうといったような通俗な冗談のほうを楽しんでいたのだが、もちろんこれは私の浅はかな読解であって、小谷野さんは小谷野さんで思っていることをうまく表現しようとしてそれ以降の文業があったわけだ。私なんかは恋愛というよりも絆という表現を選んだほうがより分かりやすいのではないだろうかと思うのだ。橋本治が恋愛について『リア家の人々』でも依然として妙に奥ゆかしいことを(それが奥ゆかしい人物像を表現するためのものとしても)言っているので何だろうと思っていたのだが、所詮は橋本も東大卒というインテリに過ぎないのだった。インテリというのも畢竟ひとつの地位に過ぎなくて、「弱み」を握られたらその座を滑り落ちるしかないものなのである。この、入れ子構造をしたふしぎな現代にあっては、カルチャーであることがサブカルチャーの重要な要件なのだ(!)

ヘーゲルということでふと思う。ヘーゲルはカントに師事しなかったがその本はよく読んだ。そしてヘーゲルと言えばその弟子たちであって、弟子が分裂するというのは、ようするにマルクスフロイトの周辺でも反復される「あの感じ」である。カント以前、デカルトの頃なんか学問上の「ゼクテ」が組まれることなんて、考えられないことだった。さらには音楽。ハイドンは貴族のために音楽を書いて、穏当な生涯を終えた。モーツァルトは貴族のために音楽を書いて、貧困のうちに窮死した。ベートーベンは民衆のために創作して、貧困に喘いだがモーツァルトよりは長く生きた。時代は変転していく。ブラームスの人生をベートーベンが知ったら羨望したかもしれない。マーラーはウィーン歌劇場の指揮者の地位を手に入れるか維持するためにか、どちらか忘れたが、そのために自分の宗教を捨てさえした。フルトベングラーナチスにつっぱってみたり和解してみたり。カラヤンナチスに伍するには貫禄不足だったし、戦後は若き日の屈辱を払拭するかのように、カフェイン抜きのコーヒーならぬ「殺人抜きのヒトラー」としてベルリンフィルに君臨した。

日本文化論のインチキ (幻冬舎新書)

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