『アヒルの子』

長男や長女は両親に反発してぐれて、そして次女だけがぐれそこねたので、長ずるにおよんでこういう映画をつくった、ということなのかもしれない。次男氏の訥々とした口ぶりとは正反対に、長男氏があまりに流暢に話すのが気になった。長男氏の土下座に次女氏が許すと言うのも、画面のこちらがわを意識したやりとりだと思った(次のシーンの頭にフォローのナレーションが入る)。

教師の子供がおかしくなるというのは聞く話だが、実業家の子供だって、それはそれでいろんな問題をかかえているだろう。父親の俗物ぶりを表現するために、右翼じみた教育論をぶつ様子を抜き出したのには、いろいろな含みを感じた。父親氏は地域の教育委員会もつとめたらしい。

すこしまえに読んだ「伊豆の踊り子」にも、水飲み場に先着した女が、女が飲んだ後の水は汚いだろうからと、主人公を含む男たちがそこに到着するまで、のどの渇きを我慢しながら待っているというシーンがあった。汚い、というのはどういうことなのだろう。

ようするに、それが守られることに根拠がない「順序」にたいし、かりそめの「理由」をあたえているのである。もし、女の飲んだ水がじっさいに汚いものなのだったら、男が飲むまでまっているべきだろう。それが合理的な判断だ。しかし、そんな「汚さ」というのは、嘘なのである。嘘に立脚した合理性など、つまりは文化、ようするに妄想にすぎない。とはいえ、女が「女は男より劣るべきものなのだから、女は後です」とあからさまに言うことを、男もまたいやがるのである。そんなにハッキリした社会では、「使えない男」は女より悲惨な境遇に落ちるからである。

あんまり物事の理解がすすまない時期に、恐怖によって子供を矯正しようとするのは、どうなの? という、まともな訴えがなされる。次女氏(監督)に向き合う保母氏の顔が凝固する。大人が、子供ではない大人が、思考停止に陥る一歩手前の表情がそこにある。従うのが当然と思いこんでいた大人の分別というものが、保母氏のなかで解体の危機に瀕するのだ。子供を自分の望むように造型しようとしたことを、保母氏は裁かれる。次女氏は同じ方法では父母を裁かない。父母からは、次女は「心置きなく甘えられる時間」を引き出さなければならないからだ。

次女氏はもしかしたらこう言うべきだったのかもしれない。…私は恐怖によってしか現実を認識できない不幸な生命体になってしまいました。お父さん、お母さん、わたしはあなたたちが怖くてしかたがない。いつ、あなたがたから殺されるのだろうとびくびくしておりました。あなたがたが愛したあの利発な次女は、親にさからうすべも知らず、またその勇気ももたない、卑屈で臆病な泣き虫でしかなかったのです。さあ、お父さん、お母さん、あなたがたが私を殺さないという証拠を、いまここで見せてください…。実際の次女氏は、両親に怒りの感情を伝えるのに急で、ここまで細やかな論理を両親に提示し得てはいなかったのだけれども、でも、こういうことなんでしょう、小野さん?