『告白』

映画『告白』

途中まで、幼い女の子に手をかけるような卑劣な殺人者にも、酌むべき内面があった、みたいな話の流れなので、いやだなあと思いつつ眺めていたが、それは引っかけで、他人の命を軽んずるやつは、そいつの命ではなく(自分の命も軽んじているから)、その思想の根拠をどっかーんと壊滅すればいいのだという、しごく真っ当な結論が示されて、痛快なことであった。

しかし、痛快さを提供するために、話の筋は、もう、漫画みたいなものである。松たか子演じる退職教師が牛乳に異物を混入するのだが、それをして生徒に報告したのが中学一年の三学期末、つまり学年末のホームルームの場でのことだったのに、そして生徒は当然のように大騒ぎしたのに、生徒たちはなぜかそのことを秘匿し、新年度になっても教師たちにその事件を隠し通すのである。傷害で訴えれるだろ、これ。

世評とは逆に、木村佳乃の母親は、それほど変とは思わなかった。自分の子供の非行を教師から報告を受けたくらいで容易に信じる親のほうがどうかしていると思う。息子自身の口から殺人の経験を告白されて、母親は逆上して息子を殺そうとするが、返り討ちにあって切り殺される。息子は半ば発狂していて、母親が自分を殺そうとするはずがなく、それは母親ではなくて自分と同じようないじめられっ子のくせに自分をないがしろにした「あいつ」が母親に変身した姿だと思ったのだ。言いふらすのは自分でやってください。

少年法が少年を守る、というのは実は舌足らずで、日本国が少年法に拠って少年を守るのだ。社会を描くのに国家のことをおざなりにするのは、べつにこの映画に限ったことではないからこの映画をことさらに非難しようとも思わないが、まあ普通に考えたらいびつなのである、日本のエンターテインメントをめぐる文化の構造が。発明少年を守る意思を示したくせに実際にはなにもしなかった発明少年の「母親」が、息子が作り、しかし息子の意図に反して用いられた爆弾によって爆死する。まあ、酷な報いなのかもしれないが、愛を実の息子にだって安売りしてはいけないという教訓である。母親の飛散した肉体が時間を遡行させることで復元され、母親は息子の成長に涙を流し、そして母親の肉体はふたたび火に炙られ焼かれ砕け去っていく。この母親には泣く権利はなかったのである。大人が国家や家庭を背負いたくない国では、子供もまた狂わざるを得ないのだ。

松や木村、そして発明少年に殺される女の子と、監督はわりと母性には無批判のようである(最前述べたように母性を全うしなかった発明少年の母は酷い目にあう)。この監督の作品は、あと『下妻物語』しか見ていないが、この機微はちょっと面白い。