いろいろな「大」(大について)

大乱歩というのは、それこそ似たような作風の時期があった谷崎が大谷崎と書かれているのを見た誰かが、乱歩にも「大」をつけてみた、というあたりではないか。後進をたくさん育てたから、みんな仲間だ派閥だとおもった「弟子」もいろいろいただろう。

日本の作家で「大」って、つきそうでつかない。川端が自殺しなければ、三島がノーベル賞をとってこれも自殺しなければ、あるいは大川端、大三島となったか? 大川端じゃあ隅田川の岸みたいだ。いや、戦後は「世界の」があるじゃないか。世界の坂本、世界の北野、世界のナベアツ

大大江って、ちょっと可笑しい。

大谷崎という呼称は、やはり谷崎がノーベル賞候補に目されたことと連動しているだろうな。精二はあまり関係ないと思う。そういえば、あのトルストイだってノーベル賞だ。筒井はそれをわかっていて、トルストイはロシアではありふれた姓で…とやったのだろう。ありふれた姓というより、名家なのだ。

そうそう、『大日本人』の「大佐藤」がいたじゃないか。この映画の存在こそ、「大」が廃れて「世界の」に変わった事情を明瞭にしめしているのだ、きっと。