ピーター・ジャクソン『キング・コング』

機会があったので見返した。ラストで、カール(ジャック・ブラック)が「コングは科学文明にではなく美女に殺された野獣なのだ」という意味のことをのたまうのが、正直不可解だ。コングの物語にアン(ナオミ・ワッツ)を引き込んだのは、他でもないカール自身なのに。

男性キャラは、コングも含めて、ピーター・ジャクソン監督のありうべき分身であるかのようだ。既婚者だけがいない。実際のジャクソン監督は、既婚者らしいから、あるいはこの作品は「自身の青春時代への葬送曲」なのかもしれない。コングを銃撃する飛行機の操縦士を監督自身が演じる。

アンのコングへの愛情を垣間見て、アンへの思いを諦めた劇作家ドリスコル(エイドリアン・ブロディ)が、自分の戯曲の上演を眺めながら、自分の戯曲に励まされて再びアンの元へと向かう。ここが、どうにも気持ち悪い。

アンの造型を、ピーター・ジャクソンは放棄しているのかと思える。性格がわからない。彼女は潔癖な理想家のはずなのに、それを示した直後に万引きに手を染めるのだ。これは単にカールが彼女に関わるための方便として、脚本に無造作に挿し込んだみたいで(オリジナルから採っている)、潔癖なはずなのにちぐはぐだ。時代は大恐慌から引き続く不況下、という形で念は押してあるのだが。

アンへの誠意のために頬に傷を負い、それをアンに知られることもなかったカールの助手や、女を類としてしか見ることができない伊達男の俳優バクスターらが面白い。女に対する男のアプローチのパターンのカタログのようだ。

いちばん不気味なのはカールである。髑髏島で死んだ仲間達のことを、映画製作の大義のために死んだのだとほめたたえる辺りで、観客は彼を怪しみだす。監督は、もしかしたらこうなってしまったかもしれない自分自身を描いたのかもしれない。