ルパン三世第1シリーズ

「エメラルドの秘密」や「宝石横取り作戦」などは、たしかに後年の宮崎駿作品を彷彿とさせる感覚がある。前者での、キャサリンの言葉にいいようにふりまわされてアタフタとマストにのぼり、プールにとびこみ、そしていきなりあらわれてキャサリンと踊りだすルパンのギャグなどは印象にのこる。後者の飛行艇による空中戦も、そう(不二子の髪のなかからなにかをとりだすという仕草がアルバトロスにひきつがれている)。

カリ城でのルパンの回想が、宮崎本人の述懐でもあるのなら、この第1シリーズの仕事は「売り出し中のころに慢心していてしでかした敗北」であったわけだ。このあとハイジで宮崎はリベンジを遂げた、と。

テレビ局は、ルパンを売れる内容に作り直させるために宮崎らを登板させたのだが、本人たちはどうも違うことを考えていたようであるらしい。宮崎駿の大人嫌いというのは、ちょっと考えてみる価値のあることのようである。

なぜテレビアニメにスポンサーがつくか。スポンサー企業がキャラクターを自社商品に刷りこんで、子供をして親にその商品を買うようせがませるためにするのである。そのこと自体はとくに悪いこととは個人的には思わないが、宮崎は忸怩たる思いがあったようである。しかしそういう状況自体を否定するのなら、大隅正秋(当時の表記)のようにきっぱりやめてしまえばよかった。「脱獄のチャンスは一度」までの4本には、たぶん宮崎らの介入はないとおもうのだが、この作品群の独特の風格は孤高のものである。

このルパン第1シリーズから魔女の宅急便まで、ほぼ20年にわたる宮崎の心の旅があったのだと思うことにしよう。スポンサーががなければおおきなアニメは作れない、テレビ局の大量宣伝がなければ観客を映画館に呼び込めない、これらを心の底から納得するまでの旅である。テレビアニメは「テレビ局の大量宣伝」が同時に作品本体でもあった。だから劇場アニメよりも規制はきびしかったのである。劇場用アニメが「上がり」なのか、テレビで通用しないから劇場用に行くしかなかったのかは、じつは区別がつかない。

そして大事なことは、いまのテレビアニメは当時のテレビアニメとは違うものになってしまったということだ。いまは深夜に、好きな人だけが見る。好きな人だけがみるものに、PTAは何にもいわないのだ。深夜アニメ枠という発想が昭和46年にあったら、ルパンは大隅演出のままで半年を完走したかもしれない。

ナウシカからもののけまで、個人的にはながい時間が経っているように感じるが、なんと13年ほどしか経っていない。もののけから今年までと同じくらいの長さである。ルパン第1シリーズからPART3までの時間とも、ほぼ同じ。