価値観逆転体験

『悪人』は、映画は前半はよかったが…。

ドストエフスキーは一冊も完走したことないんだが、『罪と罰』があったからああいう感じのものが純文学と看做された、というよりも、価値観逆転体験についてドストがしつこく拘ったことが明治大正の読書階級の青年たちの反響を呼んだのではないか。

『火宅の人』や『死の棘』も、読者に強烈な価値観逆転体験をあたえるといえば、あたえる…。真似してはいけませんと誰かもどこかのブックガイドで忠告していた。『悪人』も、映画で妻夫木聡が演じた役に観客を共感させようとしていることと、その行動と心の純情さとのギャップで観客を感動させようとしていることは明白だ。通常は悪人に共感などしないが、だからこそというわけだ。被害者のほうも「最低な奴」という現実をひっくりかえそうと作者たちは目論んではいるのだけれど、映画は布石を打ったところで終わっている。『悪人』の殺人の動機が弱いのであれば、『火宅の人』や『死の棘』の主人公たちの不品行の動機も、私には薄弱なように思われる。